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性愛に踏み出せない女の子のために 第8回第一部 前編 宮台真司

対談・インタビュー

性愛に踏み出せない女の子のために
第8回第一部 前編 宮台真司

雑誌「季刊エス」に掲載中の宮台真司による連載記事「性愛に踏み出せない女の子のために」。今回で第8回をむかえますが、二部に分けて、WEBで発表いたします。社会が良くなっても、性的に幸せになれるわけではない。「性愛の享楽は社会の正義と両立しない」。これはどういうことだろうか? セックスによって、人は自分をコントロールできない「ゆだね」の状態に入っていく。二人でそれを体験すれば、繭に包まれたような変性意識状態になる。そのときに性愛がもたらす、めまいのような体験。日常が私たちの「仮の姿」に過ぎないことを教え、私たちを社会の外に連れ出す。恋愛の不全が語られる現代において、決して逃してはならない性愛の幸せとは?
第8回第一部は、前編、後編にわけて、「「性愛を描いた映画」「二項図式の重ね合わせ」についての話題です。


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宮台真司(みやだい・しんじ)
社会学者、映画批評家。東京都立大学教授。90年代には女子高生の援助交際の実態を取り上げてメディアでも話題となった。政治からサブカルチャーまで幅広く論じて多数の著作を刊行。性愛についての指摘も鋭く、その著作には『中学生からの愛の授業』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』『どうすれば愛しあえるの―幸せな性愛のヒント』(二村ヒトシとの共著)などがある。近著に、『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』。

聞き手
イラストを描く20代半ばの女性。二次元は好きだが、現実の人間は汚いと感じており、性愛に積極的に踏み出せずにいる。前向きに変われるようにその道筋を模索中。


前編
性愛を描いた映画作品


──私たちの周りでよく聞く話題なのですが、恋愛や性愛に興味はあっても、周りから聞くのは恋愛の愚痴ばかり。そして、メディアで扱われている体験談も「こんなダメな男がいる」「悪い男には注意!」とか、恋愛に対するマイナス面ばかりで、自然と恋愛に憧れが持てない。漫画や映画の幸せな恋愛は、作り話だから実現しているんだ、と思ってしまう。同時に、ロールモデルがいないから、話を聞きたくても聞けない。だから、もし映画でリアリティのある魅力的な性愛の作品があるのなら知りたい、という声があります。宮台さんが幼い頃に見ていた作品は、性愛が描かれていたものがありましたか?

宮台 僕ら世代は小学生の頃に一九六〇年代後半の円谷プロのコンテンツを観ていました。その頃は子供向けコンテンツにもエロスのモチーフが満載でした。有名なのは1968年からの『ウルトラセブン』の最終二回で描かれていた諸星弾とアンヌ隊員の恋愛。翌年からの『怪奇大作戦』では「京都二部作」を中心として恋愛モチーフが描かれていました。

ウルトラシリーズは1965年からの『ウルトラQ』が最初です。これは1963年からの『アウターリミッツ』というアメリカのTVシリーズが手本で、『Q』の翌年から日本公開されましたが、強力な恋愛モチーフが描かれました。特にシリーズ第3回『生まれて来なかった男』と第4回『狂った進化』が余りにも美しい作品で、とても感動しました。

国に拘わらず60年代の子供番組はいわゆる「子供向け番組」としては作られていません。『セブン』全52回の13回分を担当した満田穧監督が僕のインタビューで「大人番組より力を入れた。本当のことを伝えたかった」と語っています。今の大学生が「これが子供番組とは信じられません」と驚愕するほど、高度な表現や生々しいエロス表現がありました。

日本の場合は浄瑠璃の世話もの(心中もの)の伝統が影響しています。これは「困難を乗り越える愛」が中核モチーフです。「困難」とは、親や世間やしきたり、つまり社会。浄瑠璃は「真の恋愛は、社会の外に出る覚悟の有無で試される」とします。最も有名なのは18世紀前半の近松門左衛門『曾根崎心中』と近松半二『新版歌祭文・野崎村の段』です。

それより150年前のシェークスピア『ロミオとジュリエット』(1595年)も世話ものと同じモチーフです。「真の恋愛」とは「障害を乗り越える愛」。「障害を乗り越える」とは「社会の外=言外・法外・損得外に出ること」。「言外・法外・損得外に出ること」は当時「死」を意味しました。つまり「真の恋愛」とは「死を覚悟した恋愛」のことでした。

今そんな恋愛の映画やドラマがありますか?「死ぬ覚悟」まで行かずとも「法を破る覚悟」でいい。日本は全滅です。アメリカでは昨年『ユーフォリア/EUPHORIA』というドラマが大ヒット。日本でもU-NEXTで配信されました。2シーズンあります。ラストで登場人物らの高校生活が劇中劇化され、登場人物らが自分たちで演じますが、圧巻です。

作品は高校生らの群像劇。ドラッグ、暴力、マッチングアプリを使った一夜限りの性交など今の現実を描きます。アメリカの若い世代が「自分らのことを描いた」と受け止めて大ヒットしました。ポイントは①それでも「真の恋愛」を諦めないこと、②「真の恋愛」から遠い性愛であれ善悪の判断をしないこと。要は「終わり良ければすべて良し」の構えです。

「終わり良ければすべて良し」とは「何が良いか悪いか当座は分からない」ということ。「良い恋愛だったか、悪い恋愛だったか」は後で振り返って分かる。それどころか「良い恋愛とは何か、悪い恋愛とは何か」のフレーム自体、カオスで揉まれて感情の働き方が変われば変わる。それは通過儀礼を経た成長だとも言える──。だいたいそんな話ですね。

90年代半ばまで日本にもあった「順列組み合わせ的性愛」も描かれます。前に話したけど、僕の大学時代には「彼氏がいる女が、勢いで他の男と寝た。寝た相手は彼氏の親友」みたいな話がよくありました。それが『ユーフォリア』で多数描かれ、「アメリカは変わっていない」ことも分かります。Z世代といっても、日本のZ世代とは性愛面がかなり違います。

「男は敵」「男は差別者」みたいにカテゴリーにステレオタイプを結合するクソフェミ(ラディカルフェミニズム)を「劣化した差別者」として捉える健全な政治的意図も感じます。「カオスの中で気付きを得て、新しいステージに昇ろう。悪いと思っていたものが悪くなかった、良いと思っていたものが良くなかったことに、やがて気付けるよ」という話です。

──登場人物たちは、最初は旧来の社会的な意識の中にいたけれど、それがどこかで変わる過程が描かれているんですか?

宮台 そう単純ではない。登場人物は多様です。寂しさで男を消費するヤリマンがいる。理屈で自己正当化する奥手のバージンがいる。ヤリマンやバージンなど自意識系に対してメタ的視座を取ろうとする女もいる……。視聴者はこれらの誰かに自分を当て嵌められますが、誰も彼も経験が足りないがゆえの「同じ穴の狢」だよ、という構成になっています。

『ユーフォリア』は日本では米英ほど人気ではありません。受け止める側の能力が低過ぎて、不快に感じるからでしょう。でも「テメエの快不快に公共性はない」。それもメッセージになっています。似た作品は他にも多数あります。1970年代の高校生の性愛を描くポール・トーマス・アンダーソン監督『リコリス・ピザ』2022年も良い作品です。

──高校生が年上の女性と恋愛する映画ですね。

 

『NOPE/ノープ』の隠喩と換喩

宮台 はい。似た作品は何が似るのかを理解すべく、作品を拡げます。十年前までお笑い芸人だったジョーダン・ピール監督が2022年に『NOPE/ノープ』という面白い映画を公開しましたが、1972年のベルナルド・ベルトリッチ監督『ラストタンゴ・イン・パリ』に深層の隠喩的二項図式が酷似します。それを理解すると問題の答えが得られます。

──深層に存在しているものがシンクロしていくということがあるんですね。

宮台 はい。『ラストタンゴ〜』は、撮影中に事実上のレイプがあったとして、2010年代に騒ぎになりましたが、ここでは映画の表現内容について語ります。このイタリアが舞台の映画は、マーロン・ブランドが演じる40歳のアメリカからやってきた男と、マリア・シュナイダーが演じるフィアンセがいる18歳の女の、「密室性愛」をひたすら描きます。

この作品は「性愛とは何か」を語ります。そこで描かれる性愛は、「子供であること」=「社会の外に出ること」=「同じ世界で一つになること」に対応します。それが、「大人になること」=「社会へと閉ざされること」=「同じ世界で一つになれなくなること」への抗いとして描かれます。つまり「子供/大人」が、最重要な隠喩的二項図式になっています。

それが普遍的図式である事実を理解すべく、まず『ノープ』について話します。巷間語られる通り、確かに、黒人による黒人差別批判の映画です。ただ、結果としてそう機能しているだけで、それは映画の面白さとは全く関係ありません。映画は基本的に二項図式を重ね合わせて成り立っています。中核は「見ているのか/見ていないのか」という図式です。

それが二つに分解されています。第一の「見ていない」は、「そこにいるのに数えられていない」「見えているのに見えていないことにされている」です。よくあることだけれど、「ここに人間が何人いる?」と尋ねられた時に、黒人や女を数えるのを忘れてしまうということです。そういうモチーフが繰り返し出てくるのです。

第二は、スペクタクル(見世物)の問題です。僕らが見ているものの大半は、事実に関する物語的な粉飾決算です。報道される事件もそう。先に「記憶の語りを禁止する」という『ラスト・タンゴ・イン・パリ』のルールを話しました。記憶も物語的な粉飾決算です。つまり、第二の「見ていない」は、「粉飾決算されていないものを見る力がない」です。

こうして『ノープ』では「見ているのか/見ていないのか」という二項図式を繰り返します。ジョーダン・ピール監督は、黒人のお笑い芸人として長くやってきたことで有名です。ショービジネスの世界で、いろんな差別を体験してきた。差別を描く時も、見世物として面白く描かれていれば企画が通るということを繰り返してきたのでしょう。

だから「見て欲しいのに、見てもらえない」「見てもらえているようで、見世物化されている」という二つのモチーフが監督自身の睡眠中の夢として何度も出て来たのだと思います。その夢がそのまま映画になっているのですよ。物語=ストーリーに関係なく、いたるところに「見てもらえない」「見世物になっている」という隠喩が登場しているのです。

これが隠喩だとすると、換喩も描かれて、それも面白いところです。ちなみに隠喩とは、一見関係ないものが、同じ何かを指すと感じられることです。「君は樹だ」という時、「君」と「樹」が遠いように見えて、未規定な同じシニフィエ(指示される何か)を指示すると感じられることです。人によって違う。根を張る不動さだったり巨大さだったり。

換喩というのは、言葉遊びや尻取り。例えば、谷川俊太郎の詩にあるような、音が似ているものを連続させると楽しく感じます。ラップのライム(歌詞で韻を踏むこと)もそうです。『ノープ』でいえば、あるお笑い番組に出演していたチンパンジーが人を殺しまくるという実際の事件が取り込まれていますが、それが創作的に膨らまされています。

そこでは一人だけ黄色人種の子供は殺されなかったのです。殺す代わりにグータッチする…と思った瞬間にチンパンジーが射殺される。映画の最後に、巨大UFO状の人喰い生物が出てきます。その人喰い生物と、ビッグボーイ(ハンバーグレストラン)のキャラクターみたいな巨大バルーンが、ゆっくり接近したかと思うと、パンッと割れるのです。

これは換喩です。意味はどうでも良く、近似するイメージが反復される。冒頭近くで、球体のミラーに自分の目が映ったことに反応して馬が暴れる場面がありますが、終わり近くで、見世物化して儲けたいバイクの男がかぶるフルフェイスのヘルメットが球体のミラーで、主人公兄妹の妹の目が映るのですが、これも意味のない換喩のイメージ遊びです。

映画批評家が指摘しないのが謎なのですが、隠喩と換喩のこれでもかというオンパレードで、観客は「なんだか夢みたい」と感じます。隠喩を取り出すと確かに社会批判ですが、社会的な差別を受けたり犯罪の対象になってきた人たちは、体験が隠喩として夢に出てくるから、その隠喩を描けば「結果として」人はそれを社会批判だと感じて当然なのです。

殺戮チンパンジーがコリアンの子供を殺さずにグータッチする描写を、批評やレビューを読むと大半の観客が「有色人種=被差別者」──イエローモンキー(黄色人)とモンキー(チンパンジー)が同じクラス──だからだと解釈しますが、「現実=物語」と「夢=隠喩と換喩」の差異に注目すると、むしろ「子供」だからだと解釈する方がずっと自然です。

繰り返すと、被差別者は「見られることから疎外される」=「見て貰えない」のですが、差別(カテゴリー×ステレオタイプ)ゆえに「見て貰えない」場合と、見世物化(金儲けのための粉飾決算)ゆえに「見て貰えない」場合があります。でも、「子供」には「見る営み」の障害はなく、「大人」になることで「差別」と「見世物」に汚染されるだけです。

大人がいう「現実」が──差別であれ見世物であれ──粉飾決算された「物語」だからです。大人は「現実=物語」へと閉ざされますが、子供は「現実」より「夢=隠喩と換喩」に開かれます。子供は、大人と違い「白日夢」のように「現実」を体験するのだと言えます。なのに、大人になるにつれて「夢」を裁断された「現実」を生きるように頽落します。

「現実」は、歴史(記憶や記録)を含めた物語の粉飾を施されるのでアドホック(特殊)です。「夢」は、隠喩的二項図式の重合からなる普遍です。だから「夢」が「現実」より優位な子供は、差別や見世物化などの粉飾から自由です。つまり『ノープ』では「現実/夢」という隠喩的二項図式に、「大人/子供」という隠喩的二項図式が重合されるのです。

他方、連載で話した通り「現実」は「社会=言葉・法・損得」への閉ざされで、「夢」は「社会外=言外・法外・損得外」への開かれです。子供は「現実=言葉・法・損得」に閉ざされず「夢=言外・法外・損得外」に開かれているので自由です。『ノープ』が「夢」の時空として描かれることで、観客は「自由な子供に戻れ」と推奨されることになります。

更に、「現実」は物語=散文言語が優位で、記述に偏り、「夢」は隠喩と換喩=詩的言語が優位で、動機づけ(力づけ)に偏ります。また、現実の話法は能動と受動(主客図式)が優位で、夢の話法は中動(主客未分)が優位です。だから、子供は大人に抑圧されない限り、世界から力を得て、自己に閉ざされないので、大人みたいな生き辛さを感じません。

──夢が、隠喩と換喩で構成されているのは、なぜでしょう?

宮台 重要な質問です。言葉には「詩的言語」と「散文言語」があります。詩的言語は、隠喩と換喩からなります。前に話した通り、全く違うものが同じ何かを指すという「シニフィエの連合」が隠喩。何を指していようが音や形が似るという「シニフィアンの連合」が換喩。他方、散文言語は、物語や歴史を語る叙事(出来事の記述)のための言葉です。

この区別は戦間期に業績を挙げたヤコブソンのもので、子供は詩的言語が、大人は散文言語が優位だとします。僕は「拡張版ヘッケルの定理(個体発生を系統発生を反復)」と呼びますが、子供は遊動段階の人類、大人は定住段階以降の人類に対応します。大人が散文言語優位になるのは三千年前の文明段階からだとしたのがジュリアン・ジェインズです。

それを初めて主張した1976年の本が『「二分心」の崩壊に見る意識の起源』(邦題『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』)。二分心とは、詩的言語としての神の言葉を聴く心と、散文言語で思考を再帰的に観察する心。「やってくる神の言葉を聴く心」が優位だったのに、文明化=書記言語化によって「自分の言葉を聴く心」が優位になったとします。

文明化以前は音声言語だけでしたので、ピッチ(音高)やライム(韻律)やダンス(舞踏)やリズムによるミメーシス(感染)が重要で、散文よりも詩、ロゴスよりも歌に近かった。つまり、変性意識状態に「やってくるもの」として隠喩や換喩が機能しました。ところが、書記言語では、出来事や事実の、記述による伝達と共有が目的とされたのです。

それゆえ、音声言語は「詩的言語」、書記言語は「散文言語」が優位なのです。語彙が分節されないストリーム音声はかなり前から。語彙の分節は四万年余り前から。書記言語は三千年余り前からです。だから、隠喩と換喩に反応する能力はゲノムに刻まれた普遍的なものなのに対し、記述された物語に反応する能力は表層的・派生的なものだと言えます。

それが無意識と意識に対応するのですね。無意識は隠喩と換喩によって詩的に組み上げられます。意識は物語によって散文的に組み上げられます。加えて、意識を織り成す散文的な物語は、無意識を織り成す隠喩と換喩によって方向づけられます。その無意識は、夢を織り成す隠喩と換喩を分析することで輪郭を推定できます。それがフロイトの夢判断です。

ゲノム解析で、僕らの心身がゲノムによって相当方向づけられていることが分かってきました。孤独で免疫力が落ちて寿命が縮んだり鬱や被害妄想になる傾向や、火を囲むと打ち溶ける傾向などです。それらが、集団的生存確率を上げる生活形式・に適合的な個体の選別と淘汰による、とする進化生物学や、そこから派生した進化心理学が定説化しています。

僕らのゲノムは、掛け声や未分節な歌として音声を使う長い遊動段階のバンド的生活形式によって刻まれたものです。それが、一万年前からの初期定住段階でクラン的生活形式に必要な疑似血縁や法の共有のために、次第に散文優位となり、三千年前からの大規模定住段階で文明的生活形式に必要な書記言語=散文言語で、思考を再帰的に観察しはじめます。

数百万年前からの掛け声的音声⇨七万年前からの未分節な歌的音声⇨四万年前からの分節化された隠喩換喩優位の音声⇨初期定住化に伴う一万年前からの散文優位化⇨大規模定住化に伴う三千年前からの散文機能の再帰化による個体の意識誕生という流れ。流れが進むほど、ゲノムの生得プログラムを、文化の習得プログラムが上書きするようになります。

だから、フロイト派のラカンは、散文的・ロゴス的な言語使用は、父親的なもの(社会の代理人)を通じた社会(大文字の他者)による抑圧で可能になるとします。抑圧されるのは、散文言語ならぬ詩的言語。つまり物語ならぬ隠喩・換喩です。抑圧された隠喩・換喩が無意識を構成します。それをラカンは「無意識は言語的に構造化されている」と言います。

睡眠中の夢は、長期記憶すべきものと短期記憶として捨てるべきものを選別する脳の働きの副産物です。その夢は、物語ならぬ隠喩・換喩が主軸です。夢を構成する隠喩・換喩から無意識を探り当てるのがフロイトの夢判断だと言いました。これは、日常の意識が何を抑圧しているのかを探る営みだと言えます。そこに人類学の知見を持ち込むことができます。

──私たちの日常生活が抑圧的だというのは、なぜなのでしょうか?

宮台 僕らは定住したことで法生活を送るようになります。それで僕らの現実は「言語・法・損得」が優位になりました。そこでいう「言語」は法を構成する散文。そこでいう「損得」は罰せられないように法に従う営み。こうしたかつてない異常な生活による抑圧から、僕らを解放する営みが、定期的な「祝祭」の反復と、短期サイクルの「性愛」です。

つまり、性愛は祝祭と同じく「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」であることからの解放です。これは、法生活によるストレスのガス抜きしてくれるだけでなく、生き辛い法生活が僕らの仮の姿に過ぎないことを告げ知らせるものです。つまり性愛は祝祭と同じく法生活で失われる「力」を回復させます。この「力」をめぐる営みが宗教に関連します。

復習ですが、「力」が湧き出す時空が「聖」。「力」が使われて減る時空が「俗」。この区分は、「言語・法・損得」に従う定住の法生活がゲノム的に不自然なので編み出された工夫です。共同体の祝祭──日本なら無礼講──は法的タブー/ノンタブーの反転が主軸で、法的な婚姻規範の逸脱を含むことで、婚姻規範の外にあった元々の性愛と繋がっています。

これは、定住の法生活で、「言語・法・損得」が優位な社会の時空と、「言外・法外・損得外」が優位な祝祭的性愛=〈祭りのセックス〉の時空が、外在し合う事実を示します。ただし文明=大規模定住以降、共同体の祝祭は次第に周辺化され、衰えゆく祝祭的性愛を補完するかの如く、婚外性愛=〈愛のセックス〉が、社会に外在する時空を構成し始めます。

要は、文明化以降、コミュニケーション可能なものからなる社会と、コミュニケーション不能なものからなる世界──正確には「世界から社会を引いたもの」──の間に、緩衝帯としての祝祭と性愛が挟まるようになるのです。なお文明以前=初期定住では、世界=社会、つまり総ゆるものがコミュニケーション可能だとするアミニズムが支配的でした。

文明以前は「社会=共同体」なので、祝祭は社会の全域を覆いますが、文明以降は「社会>共同体」となるので、社会の局域としての個別の共同体だけを覆います。これを先ほど「祝祭が衰える」と表現したのです。祝祭と性愛の連続性が薄れゆく一方、「法内(社会内)の婚姻性愛」と「法外(社会外=緩衝帯)の婚外性愛」の区分が重要になる訳です。

念のために整理すると、①定住以前の遊動段階には、社会(法生活)はなく、社会(法生活)の外に出るための祝祭もない。②文明以前の初期定住段階には法生活があるが、「世界=[社会=共同体]」なので祝祭は全域的。③文明以降、つまり共同体を超える大規模定住以降は、「世界>[社会>共同体]」なので祝祭は局域的。緩衝帯は③から始まる。

話を戻すと、祝祭と性愛は、社会の外──正確には社会の内でも外でもあるような緩衝帯──を与えることで、社会(言葉・法・損得)に抑圧的に閉ざされることでの生き辛さから、僕らを解放し、失われがちな「力」を回復する機能を果たしました。だから、社会の外としての祝祭と性愛が失われると、のっぺりとした日常に閉ざされ、生き辛くなります。

さて『ノープ』を観た後、似た作品を観た覚えがあると感じました。記憶を辿って50年前の『ラストタンゴ・イン・パリ』に行き当たりました。批評とレビューをウェブで総覧しましたが、全てがこの映画の主題やモチーフを捉え損ねています。これも「大人/子供」「現実/夢」「社会/社会の外(性愛)」という複数の隠喩的二項図式を重ね焼きしています。

 

大人に適用される「可愛い」
子供という「社会の外」

──『ラスト・タンゴ・イン・パリ』は一九七二年の映画ですが、当時は、「社会の外での性愛」というモチーフは自然だったのでしょうか。そういう空気があったということですか?

宮台 はい。当時はバリケード封鎖やカルチェ・ラタン運動の時代です。バリケードの中は乱痴気騒ぎでした。目指されていたのは、意識する/しないに関係なく「社会の外=緩衝帯」を作る営みです。イデオロギーな粉飾決算で物語化されていましたが、今振り返ると明確に「社会の外=言外・法外・損得外」の時空を作り出す営みだったと言えるのです。

バリケードの中は性的放蕩に加え、日本なら『網走番外地』みたいなヤクザ映画──番外地とは「社会の外」──を観る営みがありました。特に日本で興味深いのは、『ラストタンゴ〜』同様、「社会に適応した人=大人」対「社会に適用しない人=子供」の二項図式があったこと。1993年の『サブカルチャー神話解体』で詳述しましたが、再説します。

具体的には「かわいい」の変化です。「かわいい」が突然ポピュラーになるのは63年『週刊マーガレット』創刊時です。卓袱台がテーブルに、障子がカーテンに、おかあさまがママに洋風化したこの少女漫画誌は、表紙に「母と娘の情操教育雑誌」を唱っています。そのココロは「かわいい娘=誰でも好かれる娘」を育てることだと創刊の言葉が述べています。

それが学園闘争時代になると、68年からの連載漫画『おくさまは18歳』(70年ドラマ化)で18歳の「駆け出しの大人」に使われ始めます。「教師と生徒が偶然一つ屋根の下で暮らすハメに」という設定の「同居ドタバタもの」。「かわいいでしょ?ウッフーン」とウィンクする主人公は、性的規範がキツかった時代に世間を敵に回して生きる若者を象徴します。

子供に使われる「皆に好かれる=かわいい」がカウンターカルチャー的にズラされ、「世間の大人に嫌われても若者の皆に好かれる=かわいい」に転用された訳です。大人は世間に迎合したヒラメキョロメの醜悪ぶり。私はそうはならない。「大人だけど大人じゃない」=「オルタナティヴな大人になる」。それが最初に成人に適用された「かわいい」です。

重要なのは、日本と欧米では大人と子供についての価値観が逆なこと。欧米は「子供は不完全だから厳しく躾ける。大人は一人前だから解放されて自由に自己決定する。だから大人になるのは良いこと」とします。日本は逆に「子供はパラダイスを生きるが、中学以降は制服を着させられ、世間に合わせろと強いられる。だから大人になるのは辛い」のです。

「子供は不自由/大人は自由」の欧米。「子供は自由/大人は不自由」の日本。『おくさまは18歳』を含めて日本のカウンターカルチャーは日本的伝統を使って「子供は妥協しないピュアな存在/大人は妥協に塗れ薄汚れた存在」とし、「大人だけど大人じゃない」=「子供みたいな大人になる」と宣言します。実は同じ意味論が『ラストタンゴ〜』にあるのです。

ジャンヌは「父が期待する大人にはなりたくない女18歳」。ポールは「大人であるのを忘れたい男40歳」。二人は「大人なのに大人じゃない」存在──〈子供〉──として「同じ世界」に入ります。映画は「同じ世界」にどれだけ居続けられるかという実験を描きます。「同じ世界」に入るためのルールが「名前の禁止」と「自己物語(記憶語り)の禁止」。

これは「社会への参入」の拒絶です。「言葉・法・損得」の時空で相手や自分を「コントロール」したがる、社会の操り人形である「主体=能動」を拒絶する。代わりに社会を隔絶した密室で性交し続けます。密室には常時「夕陽」が差し込む。純粋な「社会の外=言外・法外・損得外」の「同じ世界」で「フュージョン」する、「忘我=中動」の構えです。

異様なルールの設定は、これが「実験」である事実を指し示します。二人が永久に〈子供〉であり続けられるかの実験です。でも実験は失敗します。男が記憶(自己物語)を持ち出し、女が現実(規範に沿う打算)を持ち出して、「同じ世界」が破綻します。社会の外にあった「性愛の時空」に「社会の時空」が持ち込まれることでバッドエンドを迎えるのです。

このエンドが「女がバカな夢から覚める」という成功なのか、「女が夢から覚めようとして果たせない」という失敗なのかと観客は問われます。監督は失敗だと結論しますが、批評やレビューを読むと殆どの観客は成功だと受け取っています。『ラストタンゴ〜』にも、『ノープ』同様「大人/子供」「現実/夢」の二項図式の重合があるのに、見逃すからです。

見逃す理由は「性愛は大人の特権」という通念です。この通念は統治権力が流布させた近代の物語です。刑法が13歳以上の性愛を合法化するように、近代以前は思春期=第二次性徴から性愛は自由。近代の物語ゆえに「本番」「肛門性交」がスキャンダルになり、「大人の性愛をサゲ、〈子供〉の性愛をアゲる」という映画の基本モチーフが忘れられたのです。

統治権力が「性愛は大人の特権」の通念を流布させたのは学校化(イリッチ)が背景です。近代以前は、第二次性徴が訪れた際に通過儀礼──日本なら元服──を行えば直ちに大人になれました。近代以降は、人材の動機づけと選別のため、数日の通過儀礼に替えて6歳頃から18歳頃までを学齢期と定め、第二次性徴後の後半を思春期ないし青年期としました。

欧米では中世的道徳主義に汚染されたキリスト教が意図的に使われ、元来は婚外性愛禁止が主軸だったのが思春期や青年期の性交禁止に拡げられます。ベルトリッチ監督がカトリックの総本山イタリアの人だったので、本国では数日で上映禁止になり、スキャンダル映画のラベルを貼られ、「大人の性愛をサゲ、〈子供〉の性交をアゲる」が吹き飛ばされます。

「大人の性愛をサゲ、〈子供〉の性愛をアゲる」の含意は話しました。大人の性愛は「社会=言葉・法・損得」に閉ざされ、本質からほど遠いので、性愛を大人から〈子供〉の手に奪還する。ただし〈子供〉は、第二次性徴後の(近代以前なら)大人──とりわけ「社会に閉ざされた(体制的)大人」になりたくない(反体制的)大人──の全員を隠喩します。

カウンターカルチャーの流れに乗っているのは『おくさまは18歳』と同じですが、「社会の外」を「密室」に設定する点は65年『壁の中の秘事』以降の若松孝二監督作品(多くが足立正生脚本)と同じ。『壁の中〜』がベルリン映画祭でスキャンダルになったので、72年『ラストタンゴ〜』は多分影響下にありますが、隠喩的二項図式の重ね合わせも酷似します。

大人/子供
うそ/正直
社会/性愛
正気/眩暈
自我/忘我
快楽/享楽
相対/絶対
言語/言外
法/法外
損得/損得外
不自由/自由
孤独/非孤独
なりすまし/なりきり
記憶を生きる/今を生きる
映画/反映画(シネフィル/反シネフィル)

「映画/反映画」を説明します。ジャンヌには一貫して恋人がいます。映画監督トム(ジャン・ピエール・レオ)30歳で、当時のベルトリッチ監督と同年齢。この男を「大人」に加担する払拭決算野郎として映画は罵倒します。トムはトリュフォー監督に激似なので、ベルトリッチはヌーベルバーグを含めた映画総体を粉飾決算として罵倒しているのでしょう。

「反映画という映画」のモチーフも『ノープ』と重なります。『ノープ』は、「夢の話法(二項図式の重ね合せ)を使う映画」を通じて、物語の粉飾決算に満ちた「差別と見世物」としての映画総体を罵倒します。『ラストタンゴ〜』も『ノープ』も、「大人/子供」=「X/Y」という二項対立の重ね合せという「夢の話法」を使って、「大人」を斥けます。

両者共通に、「表層=娯楽=大人の時空(現実)」の可視性の裏に、「深層=批評=子供の時空(夢)」を置くことで、「反映画という映画」へと昇格しています。だから、意外に見えますが、2022年のジョーダン・ピール『ノープ』は、1972年のベルトリッチ『ラストタンゴ・イン・パリ』の半世紀後のリプライズ(変奏的反復)だと断言できます。

因みに「社会の外」の未規定性として、『ラストタンゴ〜』は「性愛」を持ち出し、『ノープ』は「クラウド(雲)」を持ち出します。カウンターカルチャーの余韻が残る半世紀前と違い、「性愛」に関わる感情的劣化や身体的劣化が進んだ今日、「〈子供〉の時空としての性愛」のモチーフは理解困難で、「性愛」から「クラウド」へのシフトは合理的です。

──本来はセックスは社会の外で起こることなのに、意識が大人になっていくことで社会化された自分から抜け出せずにセックスを済ませてしまう。だから自我がなくならない。そういう傾向が多いのでしょうか?

宮台 半世紀前に『ラストタンゴ〜』が撮られたのを思えば、昔もそういう傾向はあったのでしょうが、そうした傾向を批判した同時代の作品群を挙げたことからも分かるように、当時は今よりずっとマシで、今はむしろ若い世代ほど、「社会=言葉・法・損得」と「自分=能動的コントロール」に閉ざされたインチキ性愛へと、頽落してしまっているのです。

この頽落は日本がどこよりも激しい。アメリカでも「ポリコレ的告発」対「キャンセルカルチャー攻撃」の対立が激しくなりましたが、こうした攻撃の分厚い存在──トランピズムも醜悪ながらその一部──や、明白に「ポリコレ的告発」を揶揄するドラマシリーズ『ユーフォリア』の大ヒットを見る限り、日本よりも状況ははるかにマシだと言えます。

 
後編につづく